仏教「三論宗」について!教え・歴史・特徴・唱え言葉・お経・主要な寺院・開祖者解説

宗派の一覧

このサイトでは、日本仏教における「三論宗」について
教え・歴史・特徴・唱え言葉・お経・主要な寺院・開祖者を解説します。

0.仏教「三論宗」はじめに

三論とは2~3世紀ごろ書かれたインドの3つの論を指しています。
その三つは、

  1. 中論(竜樹(ナーガールジュナ))
  2. 十二門論(竜樹(ナーガールジュナ))
  3. 百論(弟子の提婆(だいば))

です。これらから「般若経」を説く空観の精髄を示し、三論宗が成立しました。
その中で、仏教の入門でもある「三輪玄義」は、空観を最も簡明に要約しています。
その教えをもとに今回は、記事を書いていきます。

1.仏教「三論宗」教え・歴史・特徴

平安仏教・奈良仏教の南都六宗法相宗・倶舎宗・三論宗・成実宗華厳宗・律宗)の一つで、仏教の教示と追求がメインです。

①仏教「三論宗」唯識の教え

三論宗は、空宗ともよばれています。
三論をサクサクっと説明します。

  1. 中論(竜樹(ナーガールジュナ))
    小乗仏教に囚われの観念を打破するため、八不中道の正見を顕そうとしてものです。
    もう少し噛み砕だくと、
    「下劣した電車(利己的のみ)に捉われている観念を「八種の不(負)」を通じて、
    調和の取れた道(中道)に正しく眼(愛)で観て、一定ではないさま(無常)を観察しましょう。
  2. 十二門論(竜樹(ナーガールジュナ))
    十二門論は、「空」を12章に分けたものです。
    第1〜3章は因果関係第 4〜7章は論理的関係第8〜10章は実体否定の観点第11・12章は時間の観点です。それぞれ「空・不生」を証明しています。
    それぞれの門は以下です。
    第1章「観因縁門」
    第2章「観有果無果門」
    第3章「観縁門」
    第4章「観相門」
    第5章「観有相無相門」
    第6章「観一異門」
    第7章「観有無門」
    第8章「観性門」
    第9章「観因果門」
    第10章「観作者門」
    第11章「観三時門」
    急に宗教ぽく堅苦しくなります。
    →「条件と結果等々の存在しないのであるから、すべての有為の存在は空なのである。有為の存在が空であるから、無為の存在も空なのである。有為と無為とが空なのであるから、どうして自我なるものが存在しようか。」
    このような書き方をしているので、読んでいて退屈になります。なので、噛み砕いて訳します。
    条件も結果も本来存在しません。なので、存在している全てのものは、空です。存在しているものが空なので、無為の存在も空です。有るものも無いものもくうなのだから、私の自我も存在するのでしょうか?
    かなり噛み砕いています。実際は、ダルマ・因果・変異・過去・未来・現在などからのアプローチをします。
  3. 百論(弟子の提婆(だいば))
    仏教以外の学説を述べています。百論述べています。
    この内容は、調査をしています。出てきませんでした。
    もう少し分かり次第もう一度更新します。

②仏教「三論宗」歴史・特徴

中国の鳩摩羅什くまらじゅうが多くの空思想と密接な菅家のある経論を翻訳し、僧肇、僧叡、曇影、道生、僧導などの門弟が江南に伝え、三論派の基礎を作りました。
その後、四論派や古三論等々と形を変えていきました。
日本においては、慧灌によって伝えられた。飛鳥時代は、日本神話により天皇制が安定をしていたのが、徐々に権力も少しずつ薄れ、仏教に力を入れ出し、三論宗が研究されました。

2.仏教「三論宗」唱え言葉

南都六宗は、唱え言葉がありません。

3.仏教「三論宗」経典・本尊

①経典

特になし

②本尊

特になし

4.仏教「三論宗」主な寺院

日光日光寺

5.仏教「三論宗」日本での開祖者:慧灌

慧灌(えかん、生没年不詳)は、飛鳥時代高句麗から渡来した。日本の三論宗の祖。

慧灌は吉蔵に師事して三論教学を学んだ。625年(推古33年)高句麗王の授けにより来日し、三論宗を伝え、勅命により元興寺に住した。同じ年の夏は旱魃となり、その際、三論を講じて僧正に任じられたというが、一説によれば孝徳天皇のときに僧正に任じられたともいう。その後、河内国井上寺(いかみじ)を建立し、三論宗を広めた。その後、福亮智蔵に受け継がれ、智蔵は入唐し、三論教学を学び、法隆寺に住した。その後、道慈に受け継がれ、道慈は入唐し、三論教学を学び、大安寺に住した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/慧灌

6.仏教「三論宗」まとめ

哲学者デカルトの方法序説の「我思うゆえに我あり」を思い出しますが、あれも
パラレルワールドがあるとする、そうすると本当に私は存在するのだろうか?
そういう話になっていきます。その結果最後に上のデカルトの証明は、「無限は有限のうちに含まれない」ことを前提としている。しかしこれは本当に正しいと言えるだろうか?実際のところ、決してそのようなことはない。無限が有限のうちに含まれるような例はいくらでも示すことができる。たとえば3センチの線分は、長さは有限だが、限りなく分割できるという点で無限だ。円の面積は有限だが、中に無数の点を打てるという意味では無限だ。

その前の「神や仏の真理を照らし出す」理性で考えれば受け入れることができるとデカルトはしました。その考えた有る時点で、有限も無限も全ては「空」になっていくのではないでしょうか?

7.仏教「お寺の一覧表」

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ライターのプロフィール

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伝説の始まり、アルティメットサイヤ人であることを想起。

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未来+αの情報を提供。
現在は、8つのサイトを運営。

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